鈴木庸生博士に捧ぐ
 庸生博士は明治11年の誕生であるから櫻井錠二とは20歳違いの弟子である。父上の数学教育者の影響であろうか、或いは金沢という土地柄であろうか幼少の頃からかなり恵まれた質の高い教育を受けている。単なる英才教育というよりは日常なんでもない事で精神性に強い影響を及ぼす家庭教育が、広範囲に興味を追求する根本になっているように思える。仏心に厚い母上が唱える経文もあっという間に諳んじるような記憶力と仏教から学ぶ謙虚な心が養われ、小学生の頃から本で得た知識で手造りの道具を使い、化学実験を試みている事は驚きである。実験の経過から結果を予測する洞察力が”ひらめき”を産み、後に未開の大陸で、また理研の研究室で、多岐に亘る新発見に繋がったと思われる。同級生の中にも文学や天文や美術など、それぞれ異なった得意分野の持ち主が集まり、ガリ版摺りの新聞を定期的に発行していて、互いに競い高めあう良き友人に恵まれた事も幸せな事であり、この多感な時期に感性が磨がかれたのではないだろうか。
 資源の乏しい日本の打開策を海外、特に天然資源豊富な未開の東アジアに求めた国策が、庸生博士の本領発揮の場となった。しかし早くも「化石燃料の枯渇」を懸念し、化合物から出る「廃棄物の再利用」等を実施している外に、無限にある「太陽熱利用」の提言等は「奇想天外」と言わた様だが、現代叫ばれている”スローライフ”や ”エコ ”運動に通じる方向に視点が向けられている事はまさしく「先見の明」と言うべきであろう。
 庸生博士が伯母と結婚したのが明治42年、奇しくもその年に私の父が誕生している。錠二の末っ子とし育てられ、両親以外に誰からも呼びつけにされた事がなっかた小学生の自分の名を「ノブオ・ノブオ」と呼ぶその人こそ大連から帰国したばかりの、20歳年上で初対面の姉であった。
 櫻井錠二とは異なった活躍をしているにも拘わらず、またどんな奇抜な研究発表をしても世間では「櫻井錠二の娘婿だから」と言う見えざるレッテルを貼られ、心良くお思ってはおられなかったと伺った。亡くなられて70年以上も経つというのにまだこうして見たこともない姪にまで、拙い「櫻井錠二のホームページ」等に引っ張りだされ、さぞかし「迷惑千万」とお怒りであろうがお祖父様に免じて許して頂こうと手を合わせる次第である。(山本和子記)